【悲話】ペリリュー島戦記

書籍

ジェームス・H・ハラス著(猿渡青児訳)の「ペリリュー島戦記」読了

先の大戦で東南アジア地域にて玉砕をもっての戦闘が多く繰り広げられたが、ペリリュー島での戦い(昭和19年(1944年)9月15日から11月27日)は、硫黄島での戦い同様、激戦であった。しかし、当時この島での戦いについて日本だけでなくアメリカでも知られる存在ではなかった。

当初アメリカ軍は「2日で占領できる。長くても3日だ。」と豪語していたが、実際は73日間も続いた。日本軍の守備隊を指導した歩兵第二連隊長、中川州男大佐は11月24日16時、コロール島の日本軍に対し最後の電文を記録「サクラ サクラ」と、最終的には玉砕に近い結果となった。。。

まずはペリリュー島はどこにあり、どういった背景に置いて激戦を繰り広げられることになったかを簡単にまとめてみた。

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位置と島の特徴

パラオ諸島の一つ。日本から約3,200Km、フィリピン南部から約800Km東の洋上に位置する。わずか25㎢の珊瑚隆起の島。年間平均降水量は約350ml。大半は夏から秋にかけての雨期に降る。平均気温は26度から28度。湿度は高く、年間を通じて平均82%。

背景

マッカーサーがフィリピン南部攻略作戦の脅威を排除し、マッカーサーの攻撃を支援するための攻略基地を確立するため、ペリリュー島が攻略のターゲットとなった。

戦力比較

兵力重機
日本歩兵第二連隊
第14師団付き通信隊
歩兵第十五連絡の一個大隊
独立混成第五十三旅団から一個歩兵大隊
第四十五警備隊
第百四十四機関砲隊
第百二十六機関砲隊(700名)
10,900名弱
戦車17輌
航空機少数
アメリカ第一海兵師団の三個連隊
第81歩兵師団
付属海軍部隊
48,740名
戦車117輌
航空機1800機

死傷者数

戦死者負傷者捕虜
日本およそ10,900名302名(※)
アメリカ1460名6459名

※数値は当書籍に記載されたものを引用してます。Wikipediaとは異なります。

※日本人の捕虜人数は「生きて虜囚の辱を受けず」があったため、陸軍の正規兵は7名、73名は軍属の労働者で、他は朝鮮人労働者であった。

感想

当書籍はアメリカ人作家により書かれているため、生き残った米軍元兵士や当時の米軍軍事資料を元に構成されているため、「ジャップを殺せ!」、「火炎放射器で(日本兵を)数十人を焼き殺した」や「20名を射殺」と言ったような動物狩のような容易に人間の命を奪う記載が多くあり、日本人として読んでいて歯痒くもあり気が滅入る内容ではあったが、これがまさに戦争なんだと思わせられた。

日本兵は「生きて虜囚の辱を受けず」の精神で戦わなければならず、家族がある兵隊さんは生き残って日本の家族に会いたい気持ちが絶対にあったはずだが、生きる残ることが許されていない状況で、犬死に近い死に方で人生を全うせざるを得なかったかと想像するだけで、兵隊さんの無念さを痛切に感じた。

また、巻末にある訳者(猿渡青児氏)による解説では、中川大佐が出発に際に妻に対して夏服と冬服の両方を用意するように告げた際、妻は「どちらへ?」と尋ねた中川大佐は「エイゴウ演習さ」と答える場面がある。妻は「英語?」と疑問をもつがエイゴウとは「永劫」、すなわち二度と戻れない演習に向かうために、無口で堅物であった中川大佐にとって、妻への精一杯の惜別の言葉であったと思われるシーンは戦争の哀れさ、切なさを痛切に感じられた。

今の平和の世の中、先の大戦で亡くなられた兵隊さんへの感謝の念や、追悼すること事態が皆無に近く、靖國参拝することに対し、「戦争擁護」とか「右寄りの危ない人」という認識を持つ方がいるのは残念で仕方ない。

それは置いといても個人的には靖國に参拝をし、先の大戦でどのような戦いがあり、どのように兵隊さんが死んでいったかを知る必要があると考える。

これは戦争擁護ではなく、事実を知り、過去の失態・把握をすることで将来の平和維持のためにも歴史を学ぶ必要はあると信じている。

多くの日本人にはペリリュー島、硫黄島での戦いについては学んでいただき、英霊を慰めてほしいと願う限りである。

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